ユースト見てるとカメラを自転車に乗せたり宴会で騒いでるのを見せたりと全然面白くないことを放送できるのは結局今目新しいってだけなんだなと気づく。
ほんとラーメン食ったり全然面白くない雑談していたりとそんなのでも見てるのは今だけで。でも結局視聴率が高いのはテレビと同じでエロと動物ものなのです。これはYouTubeも同じ傾向にある。
結局本当に面白いものは一見すると地味であってこちらから能動的に理解しようとしないと永遠につながることはなく。
ほとんどの一般大衆と呼ばれるものは日本人だけでなく全世界的にエロと動物もしくはグルメが見たいのである。それはきっと何も考えなくても楽しめるものだから。これはこれからもずっと変わることのない永遠の法則である。
つながっていることを面白がったり嬉しがってるのは最初だけ。それが当たり前になったら大衆はすぐに飽きるのです。携帯電話から声が聞こえるのを面白がったりする人はいない。
とにかく人間はすぐに飽きる。飽き性なのだ。飽きるとは当然のことと思い込んでいる状態で、そのものを理解できる状態であることをしめします。
といっても電話の仕組みを完全に理解し説明できる人は少ないが慣れるとそれが理解できているんだと勘違いしている。理解できていないのに。である。
直接性を拒否しているんだな。これは。
人間は間接的でありたい動物なんだな。つまり肉体よりも脳で理解する方を好むんだな。これは。
つまり肉体に飽きているんだ。肉体から離れようとしているんだな、これは。
つまり肉体の仕組みを理解していると思い込んでいるんだ。人間は。
意識しなくても腕が動き指が動く。これが当然のことのように思っていて、指が動くことに驚いたりしない。指が動くことに飽きているんだな。これは。
でも、舞踏家や芸術家は違う。指が動くことに驚き、肉体があることに驚き、まるで初めて動かしているようにびっくりしているんだ。
何かが何かであるということを当然のように思う人間は芸術家にはなれないということです。
名前のあるものを全て疑え。辞書に書かれている解説は前の人間が決めた設定にすぎない。もともとこの世にあるものに名前などない。全てが全て名無しである。
顔を顔であると思った時点で、その人間にとっては顔以上の可能性を持たない。
例えば僕がダリを芸術家であると思わないのはそういう点であります。
シュルレアリスムが嫌いなのは、存在を疑っていない点である。何かを何かであると断定している点である。
例えばダリの記憶の固執という絵なんかでいうと、時計がチーズのようにとろけています。ダリはそこが面白いと思った。
それは時計でなければならない。人間の無意識の中で時計が一番とろけるはずのないものであると思い込んでいるものだからであると彼は言う。
時計がとろけるはずのないものとして画面の中で扱う意識が私の創造の仕組みと異なる。
時計はとろけるかもしれない。私ならそう思う。だから時計がとろけることに面白みを感じない。
存在自体を疑っているので、何かであると信じているものが別物に変わることを面白いと思わない。むしろそこが出発点であるから。私はそこから先へ向かっている。いったい時計は何なのだろうと。
シュルレアリスムは設定が重要なので、設定そのものが揺らいでしまうと面白みが半減する。つまり正常な意識と正常な常識を前提として見ることを強制している。
見えないはずのものが見える。とろけないはずのものがとろける。
そのリアクションは正常な人間の反応である。
いや、というよりも正常な反応を求められている。
常識的な認識を求められる芸術って一体なんなんだ。
アンドレ・ブルドンが「顔とはなにか、誰でも知っている」と宣言し、ジャコメッティは「自分は顔とはなにかを知らない」と言い返しシュルレアリストと絶交した。
これは主体と客体、主観と客観の話である。
主体性から逃れようとする現代アートは、ブルドンと同じように「顔を知っている」と思い込んでいる人間である。
主体を疑わない芸術家は生を疑わず死も疑わない。
主体とはつまり人間の存在である。存在を疑わないものは芸術家であらず。いや人間でもあらず、そいつは辞書である。
辞書で「時計」を引いてみろ。そこの解説に"とろける"と書いてある。それに驚くのは辞書に書かれてあることが真実であると思い込んでいる辞書人間である。
シュルレアリスムは辞書がないと楽しめない芸術であると言える。
私は20代の頃、富士山ばかり描いている画家を馬鹿にしていた。同じ山を何度も描いてるのは何も挑戦していない腑抜け野郎だと。
その考えはまるで間違っていたことを後になって知った。彼らは自分自身の認識を破壊している。何よりも挑戦的でなによりも厳しい芸術家であることを知る。(もちろん中には惰性で無挑戦な画家もいるが)
私も顔を描いている。顔がなにであるのか知らないから。
何故顔を描くのかという動機の部分はジャコメッティと似ている。同じような体験をしていることを先日見たDVDで知った。彼は友人の死に顔を見て、死んだ頭部を見たと言っていた。私の場合は恋人であるが。
多分私と同じように思ったのだろう。抜け殻の頭部。まるで物体のようになった頭部。今の今まで生命が宿っていて生き生きと動いていた顔が硬直し物体化していく、その行程を見て。存在することの不確かさを知るのである。
確定できることは何もない。確実なことはなにもない。全て曖昧で揺らいでいて危ういのである。それを顔は顔以上の何者でもないと言える人間は死んだ頭部を見ても何も感じないだろう。彼らにとっては死体以外の何者でもないのだから。
私は生き生きと人物を描くとき死を連想している。死体を描くとき生を感じている。肉体を描くとき山脈を意識している。山脈を描くときは肉体を。顔を描くときには夕焼けを。
主体性に行き詰まるのは、主体を疑っていない証拠である。だから彼らはそもそも芸術家でないのである。それを理解できてないのをいいことに、主体性を放棄して偶然性に委ねようとする。それが客観的であると思い込んでいる。
主体性に拘る芸術家を古い思考のアートであると恥ずかしい勘違いをしている者もいる。では彼らがやっていることはなにか。人間であることを放棄して機械になろうとしているのである。
客観性を保とうとして、例えばホンマタカシはライオンに仕掛けたGPSデータが示した場所を撮影することで主体性を放棄しているつもりでいるが、全くもって馬鹿げた話である。
こういう逃げ方は数多くの芸術家が散々やってきた。ランダムに動く仕掛けの機械がピアノを演奏したり、筆を放棄して既存物にサインをするだけだったり。
しかしどれだけ主体性から離れようとしても結局その企画を考えたのは作家本人であるという主体性からは免れることはできない。
それではアイデアを考えるという主体性から逃れるにはどうしたらいいだろうか。例えば名前だけ貸して企画から制作まですべてを他人に任せるとしたらどうでしょう。それでもやはり名前を貸すというアイデアを考えた主体性はなくなりません。
結局、人間は主体性から逃れることはできないのです。その基本的なことから始めないと芸術とは言えない。客観的だとか言って喜んでいるうちは、何の創造行為もしていないと思うべきでしょう。
しかし世間でクリエイティブなどと言われている代物は大抵が主体性から逃避するアイデアを喜んでいるだけの非創造物であることが多くてつまらない。
アイデアはアイデアである。それは芸術と言えない。
アイデアが悪くて芸術が良いと言っているのではない。別のものであると言ってるのだ。だから広告や商品などはアイデア重視で良いと思う。生活に役立つものはアイデアによるものが多い。しかし芸術はそれらとは一つ違う段階にあるものであることを忘れてはいけない。
芸術を崇高だといって否定する人間が割と多いがそれは間違っている。崇高というのは主観的なもので人によってはエヴァンゲリオンが崇高であったりバカボンが崇高であったりする。よって彼らは崇高だから芸術が嫌いなのではなく芸術そのものが嫌いなのである。もしくは芸術を知らないかどちらかである。
おっと2時間つぶやき続けた。さすがに疲れた。
崇高な小便をしてから崇高な珈琲を飲んで崇高な本を読んで崇高な絵を描いて崇高な夢を見て崇高な枕で寝ようと思います。