
図書館で何気なく手に取った武満徹著作集を読んで驚いた。武満徹が村上華岳のことを書いている。少し嬉しい発見である。
華岳の絵画に根底として存する思想については、今日、私たちの問題とすべき事柄おおいにあり、けっして特殊のひとびとの間だけであたためられていていい作家ではない。「一本の線 画家・村上華岳」 武満徹
しかもルドンも好みらしい。渋い趣味である。ルドンは割とわかりやすい類の絵だが、華岳の良さを解わかる人は少ない。私にとって村上華岳は日本で唯一尊敬できる画家であり、彼以上の存在は今のところない。
武満徹は「華岳とルドン」という文も書いている。幻視的資質がある画家としてふたりに共通点を見いだし、ふたりを幻視者(ヴィジョネール)と呼ぶ。
ふたりは共に、素描というものに重い意味を見いだしていた。素描が、絵を作る段階にあらわれる試みのようなものではなく、素描のなかには美しさがより純粋に強調されるものであることを、このふたりのように知る画家は、まれであるように思う。かれらの素描は、日常の光景の深部に、またそれを超えたところに世界が存在することを示している。「ルドン幻想 華岳とルドン」 武満徹
なかなかするどい考察。「日常の光景の深部」と言えるのが凄い。素描とは心で捉えた本質が形を持ち始める瞬間を生け捕る行為である。それは問いに対して答えがあるような完結するものではなく、常に問い続け、常に発見し続け、いつまでも形にならないことを望んでいるようでもある。紙の上で生と死を繰り返すことで、まるで芸術における永久機関として常に生々しくエネルギーを発し続けるのだ。
また武満徹は華岳の線に何度も注目している。
華岳は、放心の線ということを語ったのである。その根底にアクティヴな生命力を秘めた樹のように上向する線を感得したのではないか。
華岳の後期の画風は、ことにその山岳画においては、線ははじまるを知らず、終るを知らぬもののように茫洋として、通常の線の概念というものを超越している。「一本の線 画家・村上華岳」 武満徹
画家にとって線とは、音楽家にとって音そのものであると言ってもいいかもしれない。線とは絵を構成する要素の最小単位と言える。点で描いたり、面で描いたりする技法もあるが、実はそれらも全て線なくしては成立しない。つまり点や面で見えない線を暗示することで形を表している。
村上華岳の線が凄いのは、線そのものが意味を持っていること。まるで形はそれほど重要ではないとでも言わんばかりに、揺れ動く素粒子のごとく物質の本質に迫っている。またそれは、この世を構成する物質の本性を現すことで我々に無常を説いているようでもあり、私にとっては村上華岳は幻視者というよりも超越されたリアリストであると思う。ただその視点がミクロであったりマクロであったりするので通常の人間の視点では幻視的に写るのである。
村上華岳の絵は誰もがわかりやすい表現ではないので、その真価を知る人は少ない。