時間について。

 写真を撮っていて直感で思った。これは今一瞬を写すための機械ではない。不思議に思って色々考えた。思いとか体の感覚とかが直感的に変だ。目に入ってくる光景と撮影の行為とに何らかのズレがある。私は何をしているのかわからなくなる。写真を撮るとはどういうことか。まずそれがわからない。

 今を写しているのにそれはもう今ではないという不思議。今一瞬がすぐに過去になっていく。今一瞬がすぐさま記憶になっていく。まるで今を懐かしむような矛盾。

 人間は、この先の未来に何が起こるかわからないという不安と共に生きている。しかし過去にあった出来事が変わることはない。過去というのは未来よりも安定している。過去は不変である。

 写真が記録する対象は何だ。風景の形状か。空間そのものか。それとも時間か。ちょっと待て、時間って何だ?そんなものが本当にあるのか。時間という絶対的なものが実在するのか。

 写真を撮ることで私は漠然と気付いた。時間は実在しない。何故写真を撮ることで時間のことを考えるようになったのか。それも何だかわからないが、とにかく私は時間が存在しないことに気付いた。


 色々調べてみると哲学や物理学の分野になるらしく、本を数冊借りてきた。相対性理論が一番怪しい。私が思うところに一番近いかも知れない。

 読む前の直感が大事なのでまずは空想してみる。物事は全て相対的である。この宇宙に絶対性などない。私達は常に動いてる。私達は大きなエネルギーの運動に過ぎない。過去も現在も未来もない。全てはエネルギーのベクトルであり、永遠に続く爆発のループの中に閉じこめられているようなものかもしれない。

 風呂に入って考えた。この風呂の水はどこから来てどこへ流れていったのか。水は川と海と空と山を通り循環している。地球全体の水の量は変わらない。ひょっとして宇宙全てが地球の水と同じではないのか。

 宇宙の全体の量は不変であると仮定する。量とはエネルギーだ。宇宙全体のエネルギーの総合計は一定である。それは瓶の中で流動する液体のようなものだ。とすると宇宙は無から始まったのではなく最初から一定のエネルギーがあったのではないか。そのエネルギーが収縮したり膨張したりしているだけで。私達はその運動エネルギーの一部に過ぎない。だから相対的なのだ。唯一絶対的であるのは宇宙全体の総体量であり、瓶の中の液体の運動は相互に影響し合う関係である。


 そうやって想像していくとこんな考えに行き着く。時間とは実体があるものではなく人間が感じるものである。

 時間を感じるということはエネルギーの作用を感じることと同じである。木からリンゴが落ちるのも、川の水が流れるのも、人が思考することも、人生も、社会も、文明も、それ自体はエネルギーの作用の結果であり、時間がそうさせたのではない。

 「木から落ちたリンゴ」は、落ちる前には木に実っていたという運動の始点を思い出すことで初めてエネルギーが作用したことを認識できる。何も思い出せない人間がいたとしたら、その人にとって「木から落ちたリンゴ」は、「木に実っているリンゴと、地面に置いてあるリンゴ」として、永遠に静止したままの全く別の二つのリンゴとして認識されるだろう。彼にとっては運動が停止したままの死の状態であるといえる。


 人間にとって時間とは、動いていること生きていることを認識するための本能的論理であり、人間が意識し思考するために与えられた絶対的な原理ではないか。しかし、それは人間にとって絶対であってもその他の意識を持たない物質にとっては何の意味も持たない。

 ということはこういう事も言える。人間にとって静止していると認識する「道端にある石ころ」も、人間がその石の運動エネルギーを理解しにくいだけで実は動いている。

 まず、石は石という物質であろうとするために原子と原子が結合し合う強烈な運動エネルギーを内包していると言える。さらに地球は自転しながら太陽の周りを公転し、その太陽を中心とした太陽系は銀河系内を周回しているし、宇宙自体も膨張しているというから、完全なる石の静止というのは存在しない。

 宇宙全てが常時運動している状態であるとすれば、時の流れや生と死も人間にとっての主観に過ぎず、全ては大きなエネルギーの運動であると言える。


 と、ここまで私は全くの空想で考えてきた。借りてきた時間論の本はまだ30ページしか読んでいないし、相対性理論の本はチラ見しただけ...。しかし、まだまだ空想で考えてみたい。マクロの次はミクロで考えてみようと思う。原子よりももっともっと小さい物質の最小単位である素粒子を軸に考えてみたらどうだろう。

 空想を整理してみよう。私がこれまで考えてきた軸はこうだ。この世の構成単位のこれ以上大きな物はないと思われる宇宙の時間を軸にして考えたとき、宇宙が死なない限り、宇宙が動き続けている限り、人間の生死も宇宙という最大の生命体の新陳代謝のようなものに過ぎない。

 例えば、時間を生死(形ある物が崩壊するまで)を基準に考えたとき、人間の時間と犬や猫の時間と虫の時間が違うように、地球の時間と太陽系の時間と銀河系の時間と宇宙の時間と原子の時間と素粒子の時間は違うのではないか。

 最大の形である宇宙が持つ時間と最小の形である素粒子が持つ時間は同じだろうか。を考えたとき、宇宙と素粒子に崩壊はあるのかという問いが生まれる。しかし素粒子はこれ以上崩壊はしない最小の存在であるらしい。一番小さな単位である素粒子が崩壊しないのなら、それが集まって構成されている宇宙も崩壊しないというのが当然の理屈である。と考えるとやはり時間というものは基準のない目盛りのようなものなのではないか。


September 27, 2009