失敗を恐れずに...と、
無秩序ながらも最低限の画面上でのある一定の調和、
リズムを崩すような一筆を試みた。
根底から覆すような一筆。
結果は、悲惨。
全てが、その一筆に怯えて、萎縮してしまってる。
いやしかし、この驚きと、焦燥、絶望感、不安とが、
その画面を引き締める効果となる。
より現実味を帯びた、深い画面となるだろう。
もし、このまま絶望のまま、筆を置いてしまったら、
この画面はただのゴミくずで終わってしまう。
しかし、喜び、感動、怒り、
全ての前進的な感情の一筆から生まれて命を持った画面は、
殺されてこそさらに生き生きと生命として成り立っていく。
もし、そのまま前進的な心で最後の一筆まで描けたとしよう。
それはそれで心地よい一瞬の瞬きのような画面になるだろう。
しかし、そいつと深くは付き合っていけない。
軽い奴なんだ、きっとそんな奴は。
だから、だから、死んで、腐った、
どうしようもないその画面全体の細部全てに、
私は感情を注いでいく。
その注がれた分だけ、
付き合っていける画面となっていくんだ。
絵とともにすごすこと。絵とともに生活すること。
絵とともにあること。
その呼吸が、つまり、この呼吸となって、
細部に命をふきこんでいる。
私は、カムライの絵と共にずっと生活している。
ずっと見ている。すると絵は変化して、
創造されていく。
何層もの重なり。
その重なりがあってこそ、鑑賞に耐えうる画面となる。
そう、どうしようもなく、
行き詰まったと認識しているのは、
私のたった30年の記憶による判断でしかない。
私が私の判断を超えることが、新たな私自身の発見となるだろう。
その一見でたらめで、
破壊された、無調和の画面にこそ、次へのステップの手がかりがあるに違いない。
焦らずに、もう少し付き合ってみよう。
この画面が発している、メッセージを受け入れよう。
そのままに。そのままに。
一番やってはいけないことは、自分の記憶の前例を、
引っ張り出して、無難な解決策を施すこと。
そうして無難に出来上がった画面は、
模写ほどの価値も、複製ほどの価値も、習作ほどの価値も、無い。
全く無意味な反復でしかない行為となって死んでしまうだろう。
何故、また描き続けるのか。
自分を全て受け入れよう。
嘘も真も焦りも喜びも怒りも、
全てをそのままにそのままでそのままで定着させること。